田中功起「必然的にばらばらなものが生まれてくる」
ある日、電車に乗っていると、小ぎれいな身なりをした男のひとが乗ってきて、なぜかひとつひとつのつり革につかまりはじめた。それぞれがちゃんとひとびとの体重をささえられるのかどうかを確認するかのように。無数にあるすべてのつり革が彼にとっては一大事で、それを検査することが彼の義務であるかのようにひととおり調べおわると安心した顔つきでベンチシートに座った。
ぼくはなんだか納得した気がして「そうだよなあ、だれも確かめてないからほんとうにつり革が体重をささえられるのかどうかわからないよなあ」ってひとりごちた。「感受性の豊かなひと」っていわれてしまいそうだけど、いやいやまてよ、って周りを見回すと、彼の行動を見て見ぬふりをしているひと、笑っているひと、困った顔をしているひとなどなど。まるで前衛パフォーマンスを見ているひとたちのよう。でも、つり革を確かめたうえでベンチシートに座るってところがいい、とぼくは思う。不確かなことをひとつ確かにしたあとは「以下同じ」ってことで、じぶんが座るベンチシートはよしとする。じぶんが乗っているこの電車をよしとする。じぶんが生きているこの世界をよしとする。見ていたひとたちは、世界の不確かさを、つり革を通して見せつけられたわけだから、あいまいに見て見ぬふりをしたんだ。感覚しないことに慣れすぎていると、こうした感覚鋭いひとに会うとどぎまぎしてしまう。なんだか世界のほんとうの姿をまざまざと見せつけられた気になる。ぼくはこういう「より鋭い感覚」にあこがれる。ほんと見習いたい。
本
11