いったい、なにを忘れてきたのだろう、なにをないがしろにしてきたのだろうと、私たちは苦しい自問をくりかえしている。だが、答は、たぶん、簡単にはみつからないだろう。強いていえば、この国では、手早い答をみつけることが競争に勝つことだと、そんなくだらないことばかりに力を入れてきたのだから。
人が生きるのは、答をみつけるためでもないし、だれかと、なにかと、競争するためなどでは、けっしてありえない。ひたすらそれぞれが信じる方向にむけて、じぶんを充実させる、そのことを、私たちは根本のところで忘れて走ってきたのではないだろうか。
本ぶろ
須賀敦子「塩一トンの読書」
須賀敦子「塩一トンの読書」
わからないといいながらも、姑は読むことそのものが好きなので、昼食のあと、息子がちょっと横になりに寝室に行っているあいだなど、大きなためいきを連発しながら、古い本棚から抜き出してきた「小説」を読んでいることがあった。フォトロマンゾや小説類はむさぼるように読んでいた姑だったが、映画俳優や王家の人たちやプレイ・ボーイの写真がたくさん載っている、鉄道官舎の彼女の隣人たちがまわし読みにしているたぐいのスキャンダル雑誌を、彼女はけっして読まなかった。ほんとうのことかもしれないような話は、うそかもしれないから、おもしろくないのよ、といって。
本
荒川洋治「文学のことば」
人はたいてい一度しか、人に会わない。あの人はどんな人だったかと思うとき、材料はきわめて乏しい。「お辞儀をした人だ」「丁寧な人だ」「あの人の妹さんだ」。そのくらいしか、ひとつふたつのことしか、人は思いださないままお互いに終わっていくのである。そのことに思いをかけられる人こそが、人間によりそう、ほんとうの意味であたたかい人なのではなかろうか。
本
高野文子「ドミトリーともきんす」
詩というものは気まぐれなものである。ここにあるだろうと思っていっしょうけんめいにさがしても詩が見つかるとはかぎらないのである。
ごみごみとした実験室の片隅で、科学者はときどき思いがけない詩を発見するのである。
しろうと目にはちっともおもしろくない数式の中に、専門家は目に見える花よりもずっとずっと美しい自然の姿をありありとみとめるのである。
いずれにしても、詩と科学とは同じ場所から出発したばかりではなく、行きつく先も同じなのではなかろうか。
そしてそれが遠くはなれているように思われるのは、とちゅうの道筋だけに目をつけるからではなかろうか。
どちらの道でもずっと先の方までたどって行きさえすれば、だんだんちかよってくるのではなかろうか。
そればかりではない。二つの道はときどき思いがけなく交差することさえあるのである。
(湯川秀樹「詩と科学 ─子どもたちのために─」)
本
田中功起「必然的にばらばらなものが生まれてくる」
ある日、電車に乗っていると、小ぎれいな身なりをした男のひとが乗ってきて、なぜかひとつひとつのつり革につかまりはじめた。それぞれがちゃんとひとびとの体重をささえられるのかどうかを確認するかのように。無数にあるすべてのつり革が彼にとっては一大事で、それを検査することが彼の義務であるかのようにひととおり調べおわると安心した顔つきでベンチシートに座った。
ぼくはなんだか納得した気がして「そうだよなあ、だれも確かめてないからほんとうにつり革が体重をささえられるのかどうかわからないよなあ」ってひとりごちた。「感受性の豊かなひと」っていわれてしまいそうだけど、いやいやまてよ、って周りを見回すと、彼の行動を見て見ぬふりをしているひと、笑っているひと、困った顔をしているひとなどなど。まるで前衛パフォーマンスを見ているひとたちのよう。でも、つり革を確かめたうえでベンチシートに座るってところがいい、とぼくは思う。不確かなことをひとつ確かにしたあとは「以下同じ」ってことで、じぶんが座るベンチシートはよしとする。じぶんが乗っているこの電車をよしとする。じぶんが生きているこの世界をよしとする。見ていたひとたちは、世界の不確かさを、つり革を通して見せつけられたわけだから、あいまいに見て見ぬふりをしたんだ。感覚しないことに慣れすぎていると、こうした感覚鋭いひとに会うとどぎまぎしてしまう。なんだか世界のほんとうの姿をまざまざと見せつけられた気になる。ぼくはこういう「より鋭い感覚」にあこがれる。ほんと見習いたい。