本ぶろ

穂村弘「短歌ください」

雑誌の連載に読者が投稿してきた短歌から穂村弘が選んで淡々と紹介していく本。似た本として枡野浩一の「かんたん短歌の作り方」と比べてしまうけど、枡野浩一のほうは自分の成果物をきちんと読者に届ける方法を考える話だとすれば、穂村弘のほうはもはや短歌なんか関係なく、言ったことのない言葉、感じたことのない感触など、いままで気づけなかったことに気づく、そのことに驚く話がひたすら書かれているように思った。枡野浩一は投稿者の名前を挙げて「添削」をするが、穂村弘は字足らず・字余りの投稿は勝手に自分で修正してしまう。ここで主題なのは短歌ではなく、その短歌が書かれたまなざしにあるからだ。

たぶん普段は忘れているんだけど、我々の日常の根底には、生の奇蹟性といったものがあって、短歌というレンズで「今ここ」を拡大したとき、それが一瞬みえることがある。その意外な姿に驚きながら、同時に「やっぱり」と納得するのではないか。

短歌が「レンズ」になって、見過ごしていたものに気づくことができる装置だとする喩えに、はっとさせられた。今ここをよく見るための、より驚くための道具としての短歌という考え方。 #本

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乾久美子「そっと建築をおいてみると」

私にとって建築とは、それをおくことで世界を更新するようなものではなく、そのなかに世界の新しい表情をみつけるようなものだ。私は、建築をおくことをとおして私たちのまわりにひっそりとひそんでいる秩序みたいなものをできるだけたくさんみつけ出したいと思っている。

デザインするということはどういうことなのか?という問いに僕が回答するなら、問題を解決することだと思う。だなんて、ろくにデザインできないくせに言えたものじゃないと思うけど、著者の建築設計事務所に寄せられた依頼のなかから本当に解決するべき課題を見つけ出してアイディアを提案していく、この本の淡々と事例を紹介する文章を読んでいると、グラフィックも建築も映像もウェブも関係なく、ジャンルを超えた普遍的な「デザインをする」というなにかがやっぱりあるんだなと思う。そして、そんなデザインをするためには、いまここで何が起きているのかを見つめるまなざしが必要なんだとも思う。

だから、デザインができない僕は、いま僕に任されている仕事の本当の問題をちゃんと見つめて、もっとたくさん発見して、ひとつずつ驚くところからはじめなければいけないのだと思う。 #本

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高野文子「奥村さんのお茄子」

楽しくてうれしくてごはんなんかいらないよって時も
悲しくてせつなくてなんにも食べたくないよって時も
どっちも六月六日の続きなんですものね
ほとんど覚えていないような、あの茄子の
その後の話なんですもんね

今まで何千回も繰り返してきた食事は、例えばおとといのおかずがなんだったのかは忘れてしまうようなことだけど、そのひとつひとつが、今の自分ができるために必要な事件だった。そして、それは何を食べたかというだけの話ではなくて、事件に立ち会ってくれた人や、場所や、虫や天気や、たとえば自分が行ったこともない場所でエボラ出血熱が流行していることとかも含めて、たった今ここで、同じ時間に起きているすべての話だ。途中で突然描かれる家電製品や、醤油差しに整形した宇宙人が、身の回りのいつも通り過ぎてしまうような、物のひとつひとつがきちんとディテールを持っていること、わたしのささやかで壮大な事件にいつも立ち会ってくれていることを教えてくれる。 #本

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大島弓子「バナナブレッドのプディング」

Sさんから借りた白泉社文庫の「バナナブレッドのプディング」には、表題作のほかにも「ヒー・ヒズ・ヒム」「草冠の姫」「パスカルの群れ」といった短編も収められていて、どれも一貫して登場人物たちががんばっているのは、たとえば同性の恋愛は可能かとか、性を変えることで恋愛は可能かとか、異性どうしの恋愛はそもそも可能かといったような例題をきっかけに、誰もが生まれつき持ってしまった性から、このどうしようもない生きづらさを解決する方法を探っているということだ。そして、それらの例題がどれも成就しなかったとしても、というかもう途中からどうでもよくなって少女漫画の詩的なページでなにもかもうやむやになってしまっても、物語の最後にはみんなちょっとは生きやすくなっているように見えるから、すてきだ。

その夜ひと晩 ノートに 彼女の奇妙な 行動と言動を かきだしてつなぎあわせて 今までの なりゆきと 系統づけようとした

友人Aのように わからないままに するのが いやだったので

結局 わからなかった

「このどうしようもない生きづらさ」はそれぞれが感じていることで、他の人にはわからない。わたしとあなたはいつまでもわかりあえないけど、わからないことをわからないままに受け止めて、関係はつづいていく。ゲラゲラ笑いながらそんなことあるわけないでしょ?と思わずにはいられない、漫画のなかのたくさんのユーモアあふれるエピソードは、わからないことを受け止めるために必要な手続きなんだと思う。すっごく面白かった。 #本

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短歌を紹介する

どこでそんな服をみつけてくるのだろうこのひとにわたしをぶつけよう

雪舟えまという人の、「たんぽるぽる」という歌集。装丁は名久井直子で、カバーを広げると大きな丸いたんぽぽの花みたいになる。

ひとつひとつの単語は誰にでも意味がわかる言葉なのに、それらが組み合わさってひとつの歌になることで、なんだかすごいなにかになってしまう。でも、言いたいことはわかる。本当にわかってるかどうかはあやしいけど、自分なりに納得できる。僕だって、いつも誰かにわたしをぶつけたいと思っている。「どこでそんな服をみつけて」きたのかというようなひとがいたら、なおさらだ。

君がもう眼鏡いらなくなるようにいつか何かにおれはなります

いつか何かにおれもなりたい。何でもいい。「君がもう眼鏡いらなくなる」なら、なおさらだ。 #本

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